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彼は、僕の憧れであり続けた。
彼は、どんな敵にも屈することなく、格上と言われる相手にも果敢に挑み続けた。国内敵なしと言われた彼にとっての格上とは専ら海外の選手だった。それでも当然の如く彼が日本での試合を疎かにしたことなどなかった。これらは全て僕がそういうことを理解できるようになってからだったけれど。
僕が初めて彼を知ったのは、彼が王城ホワイトナイツという高校チームに所属している時だった。その時点で既にその地位を不動のものにしていた。高校のアメフト選手ならば彼の名前を知らない者はなく、また彼のチームも伝統ある強靭なチームだった。
触れることはおろか話しかけることすら出来ない、文字通り雲の上の存在だった。
僕はまだ小さくて、初めて見た時は彼の凄さを良く理解していなかったのだけれど時間の経過と共に彼がとんでもない存在であると思い知らされた。
彼の名は、進清十郎。無敵のラインバッカーでありランニングバック。
いつも彼を見ることしか出来ないのがもどかしかった。彼はスターで僕はそれを眺める観客の1人。自分の小さな体はアメフトに向いているようには到底思えなかったし、それ以前に僕がアメフトをやるにはまだ幼過ぎた。僕は彼に憧れて高校からアメフトを始めたけれど、その時彼は既にアメリカに旅立っていた。それこそ手の届かぬ人。
それでも僕なりに努力はしたと思う。高校生活のほとんど全てをアメフトに捧げた。
悔しくて泣いて、勝ったら笑って、いつも胸に憧れの人を抱きつづけた。
彼が僕に気付くことはないけれど僕の人生を変えた人だから、僕はきっと一生彼を心に留めて生きていくんだろう。
これから僕は彼と同じアメリカの地を踏もうとしている。彼が引退して、1年が経とうとしている。
彼が日本人としてアメフトの歴史に名を刻んだように僕にも何かできるだろうか。
彼と闘ってみたいと言う夢は結局叶うことはなかった。
けれど、走ることしか出来ない僕でも、アメフトが大好きなだけでも、誰かの憧れになることができるだろうか。
僕は、今日その思いを胸に日本を離れ、地球の裏側を目指す。
*
過去の記憶を夢に見ることがあるのだろうか。
少なくとも僕はない。
夢はいつだって妄想の産物で、それが過去のことでも未来のことでも現実には起こっていない。
今こんな風に目を覚ましてみれば分かる。今まで見ていたものは僕の記憶にはない。僕が生まれてから経験したものでもない。それはハッキリしている。前世の記憶なんてものは、端から信じていない。
けれど、それじゃあ今見たイメージ、この鮮明であると同時に懐かしさを感じさせるものは一体何なのか。
夢だと切り捨ててしまうのを自分の心が許してくれない。
根拠も確かな記憶もない単なる夢とは、明確に分けておきたいと強く思ってしまうのはどうしてなのか。
言うなればデジャヴに近い。
そんな風に懐かしさに思考と感情を支配されつつ頭をゆっくり回せばそこには確かに彼がいる。
同じ布団を被り、薄い布越しに互いの体温を感じられる程の距離で眠っている。
開かない目は何も語らず、寝息と上下する肩だけが彼の今を表す。
それをじっと眺めてみても何も変化は起きない。
何かが僕を繋ぎとめ、急かす。
頭がぼんやりしたまま彼の頬に触れようと手を伸ばす。
頬に触れる直前で何かに戸惑い、その戸惑いを押し通し、意を決して触れてみる。いつもと変わらない肌と感触。そっと人さし指の指先で触れる肌が彼を証明する。
安心はしなかった。
ただ泣きたくなる。
涙は零れなかったが、懐かしさみたいな何かが消えず、消えないどころかその強さに静かに飲み込まれそうだった。
今確かに彼はここにいる。頬に触れる自分の指がそれを証明している。それなのに未だ消えない正体不明の焦燥が僕の心を食いつぶそうとしている。僕は怖がっているのか、悲しんでいるのか。自分でも答えが出せない。
問題を解くことは苦手だ。
そんな気持ちと格闘していれば触れていた人物の目がゆっくり開いていく。そんなに強く触れていないのに起こしてしまったのだろうか。
予想もしていなかったけれど、驚きが生まれるほど感情は揺れなかった。
しばらく互いに何も言わずただ見つめ合っていた。僕の指がまだ進さんの頬に乗っているというのに。
「どうした。」
進さんの言葉が暗い部屋の空気に消えていく。けれど消える前に僕に届いた。それが本当は凄いことなんだと今初めて分かった。
進さんの言葉が届く距離にいること、今時間を共有していること、そして何より進さんが僕に対して言葉を発し、その言葉が僕を労わるものであること、それら全てが「奇跡」なのだ。
「いえ、…何でも、ないんです。」
自分の声を久しぶりに聞いたような錯覚に陥る。
進さんは、頬に乗ったままだった僕の手を、布団の中から出した自分の手ですっぽり包みこんで覆った。
もう片方の手で僕を引き寄せ抱きしめる。
僕も進さんも途中、何も言わなかった。
進さんは寡黙な人だから。寡黙で、誰よりも練習熱心。身体に関することも、食事に関することも、作戦に関することもアメフトに関係していることなら何でも知っていて、努力を怠らない人。
たまに見せてくれる僕への優しさは本当に気持ちがこもっている物や事ばかりで、僕はいつも心が満たされて時に涙を流すことさえある。
そんな進さんが今こうして僕を抱きしめている。
また、泣いてしまいそう。
僕は進さんに握られている手をそのままに進さんの胸の中に思い切り飛び込む。進さんの洋服が鼻にくっつき、そのせいで進さんの匂いが肺を満たす。
布団の中で抱きしめ合っている僕らは、今確かにここにいる。
互いの体温を肌で感じ、呼吸を聞き、匂いを体に取り込む。
この時間を死ぬまで忘れたくない。
僕は進さんにもっと近付いた。もう近付けないと思っていた距離を進さんが僕を更に強く抱きしめたことで縮める。
僕は今、進さんと共に生きている。
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