すぐ前を歩くセナの髪が、次第に強くなってくる風に煽られ、右へ左へとうねるようになびいている。 その髪のなびく様を眺めながら進は、つかの間空へと視線を向けた。 台風が近づいているからか雲の流れは異様に早く、朝は覗いていた青空の隙間さえ、今はあやしい鈍色へと変わっている。 歩道のガードレールが途切れ、小道がいくつも交差するところまで来ると、進は前を歩いていたセナに向かい、声をかけようと立ち止まった。 セナもそれを察知したのか足を止め、おもむろに口を開くと ふと、不思議そうな表情を進に向けた。 「どうかしたのか。…俺はそこを右に曲がって行くが、小早川は反対方向だろう。」 「あ、はい。そうなんですけど……。」 セナはハッキリしない態度で、周囲をきょろきょろと見まわしている。この道を通るのは久しぶりなのか、目を細め眉を寄せる表情は意外と珍しい。 次第に勢いを増してくる風を気に留める様子もなく、進はセナの横顔に見入っていた。
「どうしたの、二人して立ち止まっちゃって。」 後方から賑やかに追いついてきた桜庭達が、何の気なしに声をかけてくる。 傍らにはモン太や中坊、そして三兄弟や小結たちも顔を揃え、さらに後方からは王城アメフト部の数人が、話をしながらついて来ていた。
2校の生徒達がこうして私服姿で顔を揃えているのには、もちろん理由があった。 順調に勝ち進んだ秋大会、東京代表高の枠に王城や泥門も無事残れたため、この日はトーナメントの抽選会に参加してきたのだ。 もちろん最初から予定を合わせていたわけではなく、会場で声をかけるうちに、スムーズな流れで昼ごはんを食べていこうという話になり、 未だ桜庭のスポンサーでもあるアメリカンバーガーで、賑やかにタダ飯にありついた面々は、満足した面持ちで帰宅の途についていた。
「いや、なんかこの場所って…小さい頃によく走ってたような…。」 「む…!」 たちまち進の目の色が変わったのは、セナが『走ってた』という単語を口にしたせいだった。 セナがいつ頃から『走り』のエキスパートへ転身していったのか、進にしてみれば興味津々に違いない。さらに小さい頃のセナを知らない進にとっては、週刊誌の記者並みの好奇心が疼いても仕方がなかった。 もちろんこれまでに、ふたりで会えばそんな話が全く出なかったわけではない。 ただセナの立場からすれば、子供の頃に走っていた理由が『パシリ』だったため、全てを詳しく話したくないという事情もあったのだ。
「小さい頃というのはいつ頃のことだ? 幾つのときから走り込んでいた?」 いきなり矢継ぎ早に質問を浴びせる進に、セナだけでなく、桜庭達や追いついてきた王城のメンバー達も、少なからず動揺を見せていた。 「ちょ、…ちょっと進、こんな所で立ち話するような内容じゃないだろ?」 部員達の手前もあり、桜庭がやんわりと嗜めるが、進は一度興味や好奇心にかられると、納得するまで引き下がらなかった。 もちろんその点もセナはわかっていて、多少言葉を濁しながら小学生ぐらいと答え、その場を凌ごうとしていた。
「小早川は…ひとりで走っていたのか? 誰か師事する相手が…」 「ほら、セナくんだって困ってるだろ? このあとの予定だってあるだろうし、俺や進はショーグンに報告もあるだろ。こんな天気なんだし、さっさと引き上げないといつ雨になるかわからないって。」 桜庭が進を遮ったのは至極もっともだった。 おそらく、居合わせたメンバー達の誰もが、桜庭の言い分を正しいと思ったことだろう。 一方で、遮られたことが不満だったのか進は口を引き結び、その横ではセナが少し困った様子で佇んでいる。 なんとなく収拾しかけた場の空気に、石が投げ込まれたのはこのときだった。
「なぁセナ、俺らは現地集合、現地解散みたいなモンだからさ、セナが進センパイと話があるなら、俺たち先に帰ってもいいんだよな?」 さらりとそう言ってのけたモン太は、困ったようなセナの表情に気づくはずもなく、どちらかといえば『気を利かせた』とでも言いたいのか、得意げな表情を浮かべている。 「あー…、俺らもミーティングは明日がいいな、セナ。」 十文字や黒木は、抽選会が済めば今日の仕事はもう終わりといった様子で、既にこのあとの予定を入れているらしい。
こうなると、デビルバッツのキャプテンとはいえ、アメフト以外ではまだまだ使われている感の強いセナである。先を急ぎたがる彼らの顔色を窺って、つい優柔不断な言葉を口にしてしまった。
「そ…そうね、それでもいいよね。」 「ええっ!?」 セナの言葉に桜庭はひどく驚き、デビルバッツ内でのセナを囲む力関係に、今さらだがようやく気づいたのだった。
そんな彼らのやりとりをよそに、風はさらに勢いを増し、民家の庭木を激しく揺らしていた。 桜庭たちも、着込んだ服の前がはためき、緩い帽子をかぶった者は飛ばされないよう手で抑えるのが一苦労だ。 この状況でこのあとミーティングなんて、とんでもなかった。こんな日はさっさと帰った方がいいに決まっている。 そしてこんなときに先陣を切るのは、やっぱりモン太だった。
「じゃあな、セナ。桜庭センパイ今日はごちそうさまでした。進センパイも、また試合会場で。それじゃ、お先っす!」 そう宣言すると、モン太は中坊や小結達と連れ立って足早に帰路へつき、十文字達もそのあとを追っていった。 あっという間に解散し、キャプテンであるはずのセナだけが取り残された状況に、不憫の二文字が桜庭の脳裏をよぎった。 だが、セナの表情を垣間見た瞬間、桜庭はそれが自分の勘違いだと思い知った。
デビルバッツのメンバー達から解放されたセナは、先ほどまでの彼とは少し違う雰囲気を湛えていた。 進の傍らに佇むセナは、焦ったり困ったりする様子もなく、いますぐここを立ち去ろうという素振りも見せてはいない。そこには紛れもなく進の傍に居たいという、彼の意志さえ感じられたのだ。
「桜庭さん…」 と、桜庭の背後から遠慮がちな声が、囁くように呼び掛けてきた。 泥門の面々とは対照的に、集団下校のような距離感を保っているのが、王城の生徒らしい所だろうか。すぐ後ろに控えた従者のように、手を伸ばせば届くところに猫山が、鈴木や渡辺が、そして3年の薬丸達がこちらを窺っている。
「桜庭さん、俺達も相談してたんですけど、ミーティングは明日で構わないし、えーと…」 言いかけた猫山の目が、チラリと進やセナの方を盗み見る。 「キャプテン同士、相談ごとなんかもあるだろうし、…その、俺達だけで引きあげるってのは、ダメっすか?」 「え…」 桜庭の目が驚きに見開かれ、 やがてそれはハの字眉にとってかわり、最後は溜め息とも苦笑ともつかないものが口元に溢れた。 「気の利く後輩もタイヘンだな。」 ぼそりとそう呟くと、桜庭は無造作に猫山の頭を軽く撫でた。そして何を決心したのか進の方へと向き直り、腹から声を張りあげた。
「シン!」 その呼びかけに、進とセナのふたりが同時に桜庭を注視した。 「ショーグンには俺が報告しておくよ。俺達もここで解散にして、ミーティングは明日!……でいいだろ? それより、あんまりセナくんを引き止め過ぎるなよ。台風来てんだから、セナくんも気をつけて帰って。」 「は、はいっ、今日はありがとうございました!」 セナがペコペコと頭を下げる様子に、他のメンバー達も軽く会釈を返している。 泥門だけでなく王城のメンバーにとっても、セナの存在は進と同じぐらい大きなものらしい。 「桜庭!」 何を思ったのか進もまた、桜庭を呼び止めた。 おそらくそれはセナとふたりきりにする事だったり、ショーグンへの報告役を請け負った事への、ささやかな感謝なのだろうと桜庭は思うことにしたのだが。
「私服の着こなしは人それぞれ自由だが、やはり不自然な感じがする。」 「え?」 「靴下の色が左右で違っている。今日ずっと気になっていた、 それだけだ。」 そう言い切ると、進は桜庭の反応を待たずにくるりと踵を返し、スピアを発動せずにセナの背中へそっと手を添えると、 「行くぞ小早川。」 と当然のように、先を歩きだしたのだった。
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「 で、どうしてついてくるわけ?」 桜庭が思わず苦笑いと共に言ったのは、解散宣言したはずなのに、薬丸や猫山達が帰る様子もなく、後ろをついてきたからだった。 「や、方向が一緒だし。」 薬丸の嘘はバレバレだったが、興味津々といった眼つきの猫山もまた、嘘はヘタだった。 「桜庭さんこそ、ショーグンに報告とか言ってましたよね?…あっ、進さん達が自販機の前で止まった!」 猫山が声をひそめたのを合図に、桜庭や薬丸は慌ててブロック塀手前にその身を隠した。 尾行しているのがバレないように、すみやかに視界に入らない場所へと体を隠す術は、王城生といえども自然と身についていた。 校訓にある『紳士淑女』と謳われるような姿は、もちろんそこにはなかったが。
「なに話してんすかね。」 進とセナの様子が気になるのか、猫山がこっそりと顔を覗かせ、ふたりを窺い見ている。 「何って……抽選結果もわかったし、直接対決までの日程とか、仕上がり具合とか?……ま、お互いチーム率いてんだから、話す事なんてそれこそ何でもありだろ?」 マジメぶって答えた薬丸だが、それはもちろん本音じゃなかった。
桜庭が携帯をたたむ音がして、薬丸も猫山も不思議そうにそれを眺めている。 「ん?…ああ、若菜に連絡入れといた。台風来てるしこのまま帰るって、ショーグンに伝えて貰おうと思って。このままだと若菜も帰れなくなるし。」 「…桜庭って、若菜ちゃんを呼び捨てなのな。」 薬丸が妙なところを指摘すると、一瞬その場に沈黙が流れた。 「……高見さんは『若菜クン』って言ってましたよね。」 猫山までが妙な記憶力を披露すると、桜庭はなぜかこの二人に追い詰められているような、不思議な感覚に陥ってくるのだった。
一方で、自販機の前に佇んだ進は。 とつぜんセナがしゃがみこみ、何かを拾いあげる様子を黙って眺めていた。 「あ…。」 拾いかけたと思ったセナは結局何も手にしておらず、進は何事かと訝った。 「…あ、いえ、ちょっと光ったからお金が落ちてたのかと思って、…違ったけど。」 そう説明するとセナは恥ずかしそうに照れ笑いし、自販機に並ぶドリンクにチラリと目を逸らした。 「何か飲むか?」 喉でも渇いたかといったニュアンスで進が訊ねると、セナは遠慮がちに首を横に振った。
「自販機といえば、子供の頃に俺も小銭を拾ったことがある。」 ふいに進がそう切り出すと、セナは興味をひかれたのか言葉の続きを待った。 「確かこの近くだと思ったが、 コンビニエンスストアの脇にあった自販機で、札を入れて飲み物を買った男がいて。」 ふんふん、とセナが頷きながら進を見上げている。 「…で、慌てていたのかその男は釣り銭のうち1枚を落としたまま、車に乗り込んでしまって……そのまま気づかなかったのか、駐車場を出て走り始めたんだ。」 「へえ…。」 「そのままでは良くないと思い、落ちていた釣り銭を拾って車を追いかけたんだが、…さすがに俺もまだ小学生だったから、すぐには追いつけなかった。」 「え?……」 「だがこのあたりは脇道が多くて、ここの少し先には信号もある。そこで信号待ちで車が停まった間に、なんとか追いついて釣り銭を届けることができたんだ。」 「…そ、そうなんだ…。」 「助手席に乗っていた女性にも、ずいぶん大げさに褒められたのを憶えている。」 懐かしそうに遠い目をした進など、めったに見られるものではなかったが、セナに別の驚きが湧きあがっているのを、進自身が気づくはずもなかった。
「小早川、…さっきの話だが。」 「へっ?」 とつぜん話が逸れ、セナはきょとんとした顔をした。見開いた目がずいぶんと大きく見えて、進は妙な胸騒ぎを感じる自分に戸惑った。 「痛っ!」 その大きく開けた瞼が、ギュッと勢いよく閉じられた。と思いきやセナが両手で瞼を覆った。 「どうした、何か…」 言いかけた進にはすぐに察しがついた。この大風だ、目に埃でも入って痛んだのだろう。 「小早川、少し歩けるようならこの先に公園とコンビニがある。そこで目を洗うといい。」 「いえっ、そんなひどくないんでちょっと我慢してれば……うぅ…」 よほど痛いのか、セナは目を開けられない様子で、そのうち声も出さなくなってしまった。
ヴ……ンと、自販機のモーター音がうなりだし、進は激しさを増すいっぽうの風に、唇を噛みしめた。 今のような荒れ模様ではおそらく、小一時間もすれば雨があたってくるかも知れない。 家まではさほど遠い距離ではないし、セナを送っていくのもいいだろう。ましてや風にさんざん煽られて、セナの髪はこれまで以上に鳥の巣状態だし、彼の大きな瞳では、家に辿り着くままでに何度こんな目にあうだろう。 結果、この場所にこれ以上長くいるのは、セナにも自分にも得策ではない。 そう思った瞬間、進の中に熱い息吹にも似た衝動が湧きあがった。 「…少し我慢できるか?」 「え?」
進のそれは、『我慢できるか』ではなく、『我慢していろ』だったのだと、後になってセナは理解した。 片手で進に手を引かれ、もう片手を背中に回され、傍から見ればまるで恋人…というより、病人と介護人といった体勢で。 そこから200メートルほど先のコンビニまで、不思議な雰囲気を醸し出した少年二人が、手を取り合うように歩く姿は。 おりしも接近中だった台風の影響で、それほど人目につくことはなかったのだった。

「進さん、すみませんでした。」 セナがコンビニのトイレから出てきて、開口一番進に話しかけたとき、進の目は雑誌の棚に並んだ情報誌に釘付けだった。 「もう大丈夫か?」 「はい!」 にこやかに返答するセナの様子を、実は進だけでなく店員達も見ていたのだが、その理由はもちろん、店に入って来た時の異様な体勢に、度肝を抜かれたからだった。
「あ、僕なにか買うんで、少し待ってて下さい。」 「む?」 「…トイレ借りたんで、何かひとつでもと思って。」 セナがなにげなく言ったこの一言に、進はちょっとしたショックを受けた。 ささやかな、小さな事ではあったが、合理性を優先させる進にとって、セナのこんな心遣いは驚くほど新鮮に映ったのだ。
思えば、ふたりきりで会う時間もとるようになったし、会話も増えたと進は思っていた。 だがその大半が練習試合の打ち合わせや、キャプテン同士ゆえの部活の話に終始することもまだまだなんと多いことか。 先ほど見た情報誌の棚にふたたび目をやれば、そこには『日帰りデートならココ!』だの、『一緒に行きたい温泉一覧』だの、中には『休日デートは水族館特集』などの文字が躍っている。
確かにアメフトを通してセナと知り合った。
彼の走りに心惹かれた。 だが今は、それ以外の関係も深めたいと思っているのが、進の真実だった。 セナの見せた小さな心遣いも、今日初めて目にしたもので、まだまだ彼を知らないのだと進は痛感させられていた。
「進さん、待たせてすみませんでした。」 セナがのど飴の包みを手に戻ってきたのを見て、進はまた一歩セナに近づくために決意した。 「今日はこのまま家まで送っていく。」 「えっ、そんな、いいですよ!…台風だし進さんも帰らなきゃまずいし…」 「帰れなくなったら泊めて貰うというのはどうだ?」 「え……あ、…はい。」
ちょっと照れたようにはにかんだセナの顔は、もちろんレジ奥の店員達にも、容易に想像できるもので。 ふたりが店を出て行ってからしばらくの間は、台風そっちのけで話が盛り上がっていた事を、当のふたりはモチロン、知るはずもなかった。
さらにはその3分後、降りだした雨を避けるように、桜庭達がこの店内に駆け込んでくる事になるのだが、そこで桜庭が靴下を買うことも、まだ誰ひとり知る由もなかった。
(終)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――今回、お誘いいただきましてありがとうございました!というか原稿ギリギリでホントにすみません!!…もうおわかりだと思いますが、この話はアレです(えー…)。 幼き日のすれ違いの記憶を引っ張り出して…とか、それと進のつり銭届ける例のエピソードを、なんとか書ききりたいと思ってたんですが、書いてる最中で台風が来たので、そこから作品の焦点が大幅に変わってしまったという……すすすみません。 書いた本人が一番楽しかったのかも知れません(スライディング土下座)orz ちょこっとでも進セナ好き様の心の隙間を埋められれば幸いです。 ありがとうございました。 とり

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